はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
今年も8月が巡ってきた。
日本人のとって、8月は、広島、長崎の原爆の日、終戦の日と忘れられない日が続く特別な月だと思う。
私にとっても8月は特別な月だ。
大好きだった祖父母の祥月命日。尊敬する上司も退職後の8月に急逝した。
そして、今でも目に浮かぶエコー画面。チラチラと画面が瞬きするのを見た8月のあの日のことを昨日のことのように思い出す。
不妊治療の日々
当時、不妊治療をしていた私の「記憶に残っているあの日」は、エコーで娘の心拍が確認できた日だ。
その日まで何度も体外受精をして、採卵と移植を繰り返していた。妊娠反応が陽性だと喜んだ。胎嚢が確認できた時には、やっと私もお母さんになれるのだと安心した。
それなのに、何度妊娠しても、心拍が確認できずに、流産になってしまう。
バラ色の人生という言葉を聞いたことがあるが、流産を経験したときに、本当に周りの色が変わることを知った。
私の周りに広がる灰色の景色。
家族や友人の優しい言葉も、心に届かない。
どうやってあの時期を乗り越えたのだろうか。
流産したあと、しばらくは仕事を休んでいた。心と裏腹に体は順調に回復したので、出勤して、忙しく仕事をしていくうちに紛れていったように思う。
職場の同僚が気遣ってくれるのが申し訳ないのと、ありがたい気持ちだった。
当時の私は、励ましの言葉よりも、「きつかったね」「大変だったね」とただ、寄り添ってくれる言葉がありがたかった。
中には「妊娠できたのだから大丈夫。また次があるよ」という言葉をかけてくる人がいた。励ましてくれていることは分かっていたが、受け入れられなかった。
その時の経験から、私は、悲しみの中にいる人を励まさない。ただ、悲しみに共感して寄り添うことにしている。
どうして不妊治療を続けることができたのだろうか。私にとっては夫の存在が大きい。いつも寄り添ってくれた夫。
このひとに、赤ちゃんを抱かせたいという思いが私の原動力だった。そして、私も母親としての幸せを掴みたかった。
今でも記憶に残る心拍確認の日
その年も、新緑の季節が巡ってきた。緑はこんなにまぶしいのだろうか。毎年見ていた緑が、その年はキラキラとまぶしく、いつもと違うように感じた。
7月に私は、凍結受精卵の移植をした。何度、同じことを繰り返しただろう。毎回、これを最後にしたいと願う。
妊娠反応陽性、胎嚢確認とここまでは順調だった。
そして、これからが私にとってのハードル。
心拍確認の日、夫と一緒に病院に行き、ドキドキしながら診察室に入った。
ただ、今回はすでに、つわりの症状がでていて、これまでとは違う。
先生も緊張しているように見えた。
そして、私にとって忘れられない瞬間がきた。
「おめでとうございます。心拍が見えましたよ。」と言われて、エコーの画面を見てみたら、チラチラと瞬いているのが分かった。小さいけれども力強い。「ここにいるよ」と主張しているようだ。
私にとって感激の瞬間なのだが、ムカムカして気持ち悪く、ぼーっとしていたことを覚えている。
私よりも夫の方が感激しているようだった。
先生から、「来週、また心拍が確認できたら、妊娠が継続できる確率が高まります。」というようなことを言われたことを覚えている。
不妊治療を終えて見えた景色
順調に妊娠期間が過ぎて、出産。
娘はもう6歳になった。わがままを言ったり、癇癪を起したり、子育ての悩みはつきない。
でも、私は、母親としての幸せを掴むことができた。
今まで知らなかった世界を知り、見たことのない景色を見ることができる。
あの日、小さいけれど、力強く生きていることを私に見せてくれた娘。
産まれたきてくれた日はもちろん、忘れられない記憶に残る日だ。
娘の成長とともに記憶に残る日がどんどん増えていく。
たくさんの記憶に残る日の中でも、娘の心拍が確認できたあの日は特別だ。
8月のうだるような暑さと太陽の眩しさ、つわりの気持ち悪さが混ざり合って体の中にしっかりと残っている感じがする。
8月になるとあの日のことを思い出す。
当時の私に言ってあげたい。「おめでとう。あなたは、新しい景色を見ることができたよ。頑張ってくれてありがとう。」
(12月2日追記)
不妊治療の後、生まれてきてくれた娘も小学1年生になりました。下記の記事で「娘の忘れられない1日の日記」を紹介しています。
合わせて読んでいただけると嬉しいです。
昨日の自分に勝つ!小学1年生の子どもの忘れられない1日の日記 - りらっくすぅーる
最後までお読みいただきありがとうございます。
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リラックスして過ごせますように♪